akiraの個人ブログ

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上智大学の藤山直樹教授の最終講義に行ってきた。ー精神分析を生きるー


友人の精神科医から誘われて、仲間内で上智大学の藤山直樹先生の最終講義に行ってきた。何気に上智大学自体行くのは初めて。

会場のホールは数百人入るところだが、ほぼ満席だった。開演ギリギリで入って座る席がなくて困っていたら、係の人が開いていた関係者席に座らせてくれた。結果としてかなり前に座れたのでラッキーだった。

藤山先生の講演は、終始くだけた感じで、人前で話すのが慣れているなという印象だった。後から聞いたが学生時代から劇団をやっていて、今では落語もやっているとのこと。事前に配られたレジュメにはマクラとあったが落語の構造を自分の講演に取り込んでいるようだ。全体的に話が面白くて会場では何度も笑いが起きていた。最初に会場で赤ちゃんが泣いていたのだが、そうしたアクシデントも拾って笑いにしていた。ベテランの落語家のようだった。

『甘えの構造』で有名な土井健郎の話から始まった。藤山先生のことは事前知識もなく来たので、せいぜいフロイト系の精神分析の人ということ以外何も知らなかったが、東大時代は土井先生に師事していたという。

印象的だったのは世阿弥の「花」の話だ。世阿弥は役者がいて、観客がいて、その相互から生まれるものを「花」と名付けた。精神分析も同じく分析家とクライアント(分析主体)いて、その二人が相互的に反応するサムシング、世阿弥が「花」と呼んだものがある、精神分析はそうした「花」のために営まれるという。世阿弥は創作関係、エンタメも含めてことあるたびに出てくるのでちゃんと読んでおく必要があるなと思った。

藤山先生は、精神分析家というのは精神分析を生きるということだという。フロイトの「眼鏡をかけたりはずしたりするのとは違う」という言葉を紹介した。精神分析の技術を習得したから精神分析家ではない。教習や技術の習得ではない。自己の変容を受け入れる生き方そのものに入ることが精神分析かになることなのだという。

講演の中で精神分析家として生きることは「わからないことの中にいる」という言葉があった。たとえばクライアントとのやり取りでクライアントの言葉に想像を張り巡らせてもわからないことというのが出てくる。その時にわかったようなことをいうのではなくわからないでいる自分を自覚しそこで感じる情緒的な感情を受け入れること。こうしたことが大事なのだという。精神分析家に限らずこうした感覚は大事だと思う。最近僕が慣れ親しんでいる言葉を使えば自己のメンタライズを行うということだろう。

精神分析はやったことはないが、クライアントと接していると、自分の中にネガティブな感情が芽生えることがある。藤山先生も精神分析をさなかでそうした感情が出ることがあるという。問題はそこに蓋をしてしまう可能性があることだ。この蓋は自覚的にも無自覚にも行われることがある。難しいのはネガティブなものは見ようとしなくても確かにあるので、自覚がないと態度や言葉に出てしまう。これがクライアントとセッションをやる際にマイナスになったりすることがある。精神分析にもカウンセリングをやるうえでの共通項はあるのではないか。

精神分析家として生きることは、精神分析の技術を習得することとは違うと藤山先生はいう。聞いているともはや出家に近いものだと思う。あとで精神科医の友人に聞いたが、そもそも精神分析家になるには、お金も時間もものすごくかかるのだという。正式に認定する協会があって、その協会の認定基準に見合う講習とスーパーバイズを受ける必要がある。人数も限られているからわざわざその人のところに通う必要もある。藤山先生も「精神分析家になる人はだいたいおかしい」のだといっていた。精神分析家に認定されてもセッション代も保険が効かないし、セッションでお金もらうくらいなら医者なら当直のバイトでもしたほうがよほど稼げる。それでもやる以上なにかあり、人生の実存をかけたなにかがないとやれないのだろう。

なので人生ののっぴきならないものがある人が出家してしまうものに似ている気がした。

精神分析家にさすがになりたいとは思えなかったし、僕としては自分がやっているセッションに精神分析の知見を取り入れたり、間接的にかかわっているからフロイトをはじめとした精神分析の流れを教養として押さえておこうというそのくらいの意欲しかでなかったのだが。

最後に土井先生の話で終わった。「土井先生に始まり土井先生に終わる」と藤山先生は講演で話していた。土井先生は周りの人間を分析家にしないし、させなかったという。藤山先生自身も大学では一切やらなかったという。精神分析に近づくのは一種の病だし、特にゼミ生相手に勧めたりスーパービジョンをやってしまうと重複関係になるからだという。これは確かにそうだと思った。精神分析もスーパービジョンも受け取る側とやる側にすごい力関係が生まれるからだ。重複というのはその通りだろう。場合によっては社会的に危ないことになったりしもするし。そのあたりは確かに気を付けないといけないことだ。

全体的に肩の力を抜いて終始面白く聞くことができた。精神分析家にならなくとも、藤山先生の話を聞いて読んでみようと思う本や気が付いたことができたわけだしいってよかったと思う。これもまた「花」だろうか。

▼当日のレジュメ